p16
驚いたことに「文藝春秋」昭和五十年八月号の『戦艦大和』(吉田満監修構成)でも、「全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う」(軍令部次長・小沢治三郎中将)という発言がでてくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人々にはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそう言ったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。
p53
さてここで、空気支配のもう一つの原則が明らかになったはずである。それは「対立概念で対象を把握すること」を排除することである。対立概念で対象を把握すれば、たとえそれが臨在感的把握であっても、絶対化し得ないから、対象に支配されることはあり得ない。それを排除しなければ、空気で人々を支配することは不可能だからである。
p66
この、公害問題を追及し続けた人の結論は、さすがに鋭い。氏は、その「大過」の基本的原因を、前述の一項目の削除ーすなわち「経済の発展」と「公害問題」という相対立するものを対立概念で捉えることを拒否し、相対化されていた対象を、一方を除することにより、「公害」の方を絶対化してこれを臨在感的に把握して、「熱しやすい」すなわちブーム的絶対化を起こした、という点においているのである。
p81
これは、日本における「会議」なるものの実態を探れば、小難しい説明の必要は無いであろう。たとえば、ある会議であることが決定される。そして散会する。各人は三々五々、飲み屋などに行く。そこで今の決定についての「議場の空気」がなくなって「飲み屋の空気」になった状態での文字通りのフリートーキングが始まる。そして「あの場の空気では、ああ言わざるをえなかったのだが、あの決定はちょっとネー…」といったことが、「飲み屋の空気」で言われることとなり、そこで出る結論は全く別のものになる。
従って飲み屋をまわって、そこで出た結論を集めれば、別の多数決ができるであろう。私はときどき思うのだが、日本における多数決は「議場・飲み屋・二重方式」とでもいうべき「二空気支配方法」をとり、議場の多数決と飲み屋の多数決を合計し、決議人員を二倍ということにして、その多数で決定すればおそらくもっとも正しい多数決ができるのではないかと思う。
p92
だが、われわれの祖先が、この危険な「空気の支配」に全く無抵抗だったわけではない。少なくとも明治時代までは「水を差す」という方法を、民族の知恵として、われわれは知っていた。
コメント
対立概念をたてて敵味方をはっきりさせることをやりがちなのは、神経系が Fight or Flight をベースにしていることと似ているように思います。すなわち、認知的にも神経的にも、少ない情報でも生命維持につながる意思決定や行動をとれる特性が今の人間が生き残っている理由の一つのように思えるのです。
少ない情報での意思決定という点では、本書中にも紹介されいている偶像支配も同様です。偶像支配=シンボル=アイコン=象徴=イメージと考えると、シンボル化してイメージを連想しやすくすることは、敵味方の判断を容易にすることにつながり、意思決定に必要な情報が少なくて済むように思えます。
ナッジとしての情報設計への応用を考えると、対立概念を立てること(運動するとこうなるよvs運動しないとこうなるよ)や、アイコン化(カッコいいキャラクターvsカッコ悪いキャラクター)することによって、意思決定につながる可能性もあるように思います。
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